昭和41年11月29日 朝の御理解
甘木教会の初代安武先生が初めて、小倉の桂松平先生のお取り次ぎを頂かれて、頂かれた御教えが、「大地の御恩徳」ということです。それこそ足元から鳥が飛び立つように、まぁ驚きであったと言うておられますですね。「天の恵み」とか、そういうことはもうおぼろげながら、分かっておったけれども、大地の御恩徳とか、大地の大恩とか、ということを初めて聞かれた。しかもその感動が素晴らしいですね。足元から鳥が飛び立つ、鳥が飛び立つと言う様な驚きであったと。
「この神様は大した神様じゃ」と、この感じられたと言う事でございます。そういう私は御信心意気からああした、甘木の素晴らしい信心が生まれたと思いますですね。先生がいっつも仰っておられた、「お礼が六お詫びが三分、願いは一分」と仰っておられます。ね、例えば祈りの内容と言った様なものを、トモウに過程するならばです、お礼が六分と仰っておられる。お詫びが三分願いが一分と、言わばたった一分のことだけしか願っておられるにも拘らず。
あれだけの御ヒレイ、あれだけのおかげを、受けられたということに、私共は一つ心の目を開かなければいけないと思うですね。神様とはお願いするこつばぁっかりのごと思うとる。そして例えば言うなら、あたしどもは反対お願いが九つの、お礼とお詫びは一分ぐらい、ね、ほれで一生懸命お願いをしよるから、大変なおかげ頂けるかというとおかげ頂きよらんでしょうが。ね、甘木の初代の場合それが反対である。お礼が六お詫びが三分、そのお礼というのには注がしてある。
お礼心の中で「有り難うございます有り難うございます」ばかりいうてるだけじゃつまらん。お礼は六分というのにはね、こうしなければおられない、形の精進がなさらなければならんといった、それが本当に有り難いの実感なんだ。「お前の有り難さはどのくらいか」っち、もう心の底で有り難うございますと言うとるだけじゃつまらんっていうわけ。お詫びが三分、ね、それにもまた注がしてある。それは改まるとか、「どうもすいません、すいません」ばっかり言うときゃいいっち、ね。
「有り難うございますばの」と言う、「相すいません相すいません」を三遍言う、「どうぞお願いします」を一遍言う、そんなもんなもんじゃないのだ。ね、その甘木の親先生の、御信心の御内容というものがです、ね、どこからそう言う様なものが生まれて来たかと。天地の御恩徳を知られ、それを段々深く感じされるようになる。その天地のお働きの中に、おかげを頂いておるという事にです、それこそ大変な感動をもたれたということ。考えれば考えるほど、お礼を申し上げねばならんことばっかり。
そのお礼に対して、その喜びが様々な形に現れた。甘木の初代が仰っておられたそうです。ま、その当時のことですから、今とはちょっとけたが外れておりますけれども、例えば百円の物を、神様の御用のために使う時には、百円じゃありません、十円、十円の物を神様の前に、神様の御用に使う時には自分が、ね、一円の物を使う時のような心持ちと、厳密に言うたらもっとそれは、零細なことだったでしょうね。
いわゆる条件がそれですから、ね、神様の前に例えば十円の、御用をさして頂く時にはです、自分の物を一円買う時のもう恐らくは、私はあのおかげ、あの御大徳から思うて、もっともっと小さい物であったろうです、ね、もう「安武松太郎の物」なんていうのは、考え方が全然おありにならなかったに違いない、だけん分かりやすくそうおっしゃったんでしょう、ね。「自分の物を使う時には、一円の金を使うても十円の金を使うたような心持ち」とおっしゃった。ね。
そこにねおかげを頂かれて、与えて受けられる方の違いがありますですね、私共の場合はそれが反対、神様の前に一円のおかげを頂たなら、それこそ十円ぐらいおかげ頂いたごとあるっち。「これはもう、私が」っと言った様なものが、前にぶら下がってくる。自分の物に使う時には、それこそ水のようなということじゃなかろうけども案外平気、十円の物を使うても、それこそ一円使うたがたぐらいしか、思っていないような、御本部参拝なんか致しますと、一番のよう分かる、ね。
まぁ例えて言うなら、お初穂は百円しかしとらんなら、お土産は千円がたこうて来る。これはもう私はもう、若い時からでしたけれど、もう御本部参拝した時には、お土産っていうのは買うて来た事は、ためしがありません。もう絶対買うたことありません私は。有名な饅頭でも、せんぺいでも知ってますけれど、ね、それこそ私はせんぺい一切れ買うてきたことありません、ね、頂くのは頂きますけれども、自分で買うて来たということはありません。
だけん家の子供達は私が外に出た時には、お土産はもうないものだと、もう「お土産は」なんてだから言う、言う事は一つもありません昔から。私は又昔から飲食店によってから、一人で御飯を食べた事もまだ一回もありません。自分一人でまぁお付き合いもとっ、まぁ誰彼と一緒に、これは又別ですけれどね。天地の御恩徳を悟らして貰って、そうであると言う訳ではないですけれども、ね、そんな大変なまではないですけれども、何とはなしにそんな事は、あっては相すまんという気が、非常に強いんです私は。ね、
その反対に、もう私は神様の御用にさしてもらう時には、もうほんな言うならば、何て言うでしょうか、もうそれこそ惜げあしげがないです。これだけのことが出来るようになったという喜びこそあれ、ね、それとても最近はそんなことありません。何故ってこれだけの事が出来るようになったというて私が、私がしよるじゃないです、自覚がこのごろ強うなってきたからです。
昨日一昨日でしたか委員長がみえとりました。経理の久保山さんもきとりました。何かの話しからこの頃ある方がここ信心はないけど、私が昔まぁお世話になったと言やぁお世話になった、いわゆるお付き合いの方がです。大変今金に困っている、まぁその金を借りにみえた。金額はわずかばかりであった。でその事を私神様にお伺いさして貰いよりましたらね、今の椛目の例えば一万円は、十万円に匹敵するとおっしゃた。
これは、ね、一万円が十万円がたるあるという意味じゃないでしょう、実を言うたらもっと大きいかも知れません。確かにそうだろうと思う、何故って皆さん分かりますか。子供達に私は申しました。「あんた方が百円使わんと、ね、千円使うやったと同じこと、百円使うたら、もう千円使うたと同じ事ばいの今の椛目のお金は」。どういうわけだと思いますか。それはね、只今私申しますように、私という者の、私という「これは私の」という自覚が、もう殆ど無くなって行きよるからです。
それはどういう事の意味を、意味するかと言うと、例えて申しますなら、御造営なら御造営が終わったと致しましょうか、いや終わったじゃない、言うなら借金払いが、全部すんだと致しましょうか。もうそれから先にはどれだけの、それこそ億の付く金がかりに集まってくるのか、ね、私のにはもう何にも感じられないお金なのだからですよ。それ意味がお分かりになるでしょうか、ね。
もう私に言うならばです、ね、ただお金のお取り次ぎだけをさして頂いてもです、私には何ぁにも言うなら、ならんものだということ、もうまあ極端に言うなら、ね、( ) 馬に小判なんだ 私にはと言うほどに、私には金銭は必要ないのです。億万の金がよし集まってきたところで、あぁそうそう銀行関係の話しからでした。ここあたりに来とります田主丸の信用組合、の組合長です。他の係りの者は分からん、けれどもその組合長だけは考えとるらしいです。
「椛目の金光様っちゃ大したこっちゃある」っちいうこと、例えて言うなら、月に百万なら百万づつ、お金を持って行く、これは商売人が持って行くならそれは売り上げを持って行くのですから、椛目の人なんか、まぁ言うならばもう純益なんです。大したこっちゃあるっち、ね、けれども今なら持っていけば持っていくほど、それは御造営の方へ打ち込んでいくのですから、残りは致しませんでもです、もしこれが御造営がいわばもうなくなって、支払いが無くなったら後はどういうことになるでしょうか。
こちらが貯めようとも思わない、そこに楽しみを感じる訳でもない。はぁあれでもんぺいっちょ買おうかと言った様な気持ちはさらさらない。まぁもう言うならば私にはお金は値打ちはないものだと言う事ですよ。皆さんほんとにほんなこっちゃろうかと思いなさるでしょうね。先生あんなこつ言いよさんなる、ほんなこっちゃろうかと思いよんなさる。所がこればっかりは、ほんなこつですからどうぞ信用して聞いて下さい。
成程甘木の初代がですね、百円の金をいわば神様の前に使われるときには、十円か一円使うたような気持ち、恐らくその一円すらもなかったろう、ただ一円と言う様な事がお話にならんから言うておられただけ、私すらがそうなんだもん。自分が一円の金を使うときには、それこそ神様の金を百円も使うたような気持ち、こればっかりは私共の子供達は五円の金でも使いません。もう特に御造営が始まってこの方。
御造営が始まったと言うわけでもないですけれども、家内でも五円の金でもここからやっぱりいちいち詮議されてからこれは何に使うのか、どうするのかと言われなければ、私は。その代わり払わなければならんものは、どれだけ前の月であろうが、私はそれをどうこう言うたことはありません。ね、私はそう言う様な事がどこから生まれてくるかというとです、結局御礼心が強くなってくるからではなかろうかとこう思う、ね。
神様の御礼のこことが強くなってくる。ね、神様への御礼が六にお詫びが三分、恐らくはこれは信者にお話になった、いわばその標準であった。実際は御礼が八つも九つも合っておられたのではなかろうかと、私は思う。恐らくはお願いと言う様な事はなさっておられなかったかも知れない。いや私ですらがそうなんですから。のものがあれば、もうほんとに相つまりません、私という自覚が出来てくれば来るほど、又事実ほんとに相すまん私でありますから、私の場合には非常にお詫びが強いです。
もちろん相すみません、相すみませんばかりじゃいかん、そのお詫びにはです、改まりを伴うておることも事実です。そこに焦点を置いて、精進させて貰っておることも事実です。御礼の方が中々出来ませんですけれども、ね、けれども確かに私、ことについての願いというものは、まぁまえです。もうお詫びと御礼に尽きるのです。例えば家庭の事においても。例えばよし子供が病気しても、もうするよりほかないのです。子供がどんなにうことを聞かんからというて、お願いのだんじゃなかぞ、ち。
御礼とお詫びに尽きる、それでいてもやはり足しは、この様におかげを頂いておると言うこと。ですからその御礼とお詫びということ内用をです、もっともっと皆さんがです、ね、ほんなら私も今日から御礼をとおう言おうとか、九つ言おうとかいうて神前に唱えたからというてないですよ。御礼心に例えばこうさしておらなければおられないというのは、お供えだけのことではないですよ。ね、その御礼心のまま実意丁寧神信心に繋がっていかなければならないんですよ。
御礼の印に、お客さんに対してから心のそこから有難うございますが言われる、又それだけのサービスをさして頂ける、こうさしてもらわなければおられん、それなんですよ。すみません、お詫びのしるしがですよ、改まっていく姿になってこなければだめです。確かにその辺は、反比例してまいりますようですね。ある意味お詫びがほんとに心のそこから出来る時です、願わんでも頼まんでも、いわばおかげが頂ける。
昨日、いや昨夜ご無礼のことについて、いろいろお礼申させて貰いよりましたら、皆さんあのご承知でしょうかね、私どん子供のとき目はりごんぼ、ちいいよった。こうのごとありましょうが、あれいっぱい頂きます。御心眼に。そしてあのどんどんお礼申し上げておりましたら、それからこういわゆる目はりごんぼち言う、目がこう出ておるところを頂くんです。もうそれから私は感じたんですね。それこそ人が目を見張るようなと言う風に私は感じたんです。
目はりごんぼに、めはりごんぼに頂いてから、それこそ人が目を見張るように、昨日も四国の松山というところから、真の道教という教会から、これは金光教の別派です。三代金光様がお許しになって、いわゆる、教祖様という方が亡くなられましてね、そして現在二代目を奥様が継がれて、三代目の息子さんがあんまり、そのもう信心の方へあれしない。こりゃもう大変な、一時は三千名からの信者があった。修行生が五十人も六十人もあったっちいう。
そういう事情だったんだけれども、教祖様が亡くなられてから、もうそれっそれこそ、を打ち枯らした様に、御ヒレイが落ちて、もう朝の御祈念に二人か三人しかお参りがない、と言う様な状態。そこででの総代相寄って、その椛目の御ヒレイのことを聞かれた、もう私共が想像以上ですね、椛目のことを皆さんが、良く知っておられることは、私は驚きました。ね、それでその、椛目にその修行にでも、いわゆる三代様をですね、そのこらして貰う事はでけんだろうか、と言った様な話しがございました。ね。
はぁ私共には受入状態がないですから、そういう尊い、その言うならば何々教の、(?)、まあ言わば、言わば教主ですからね、ね。そんなことが、丁度あの嘉郎さんが来とりましたから、嘉郎さんが案内して、御造営の方へ、あっちの現場を見に行かれました。それこそ本当に目を見張って、帰られたことであろうと思う、帰りに私はお会いしなかったけれども、ね。人がですね、それこそ見栄を見張るようなおかげを頂くためにはね、お願いしてから頂くことは絶対ありませんよ。
けれども、さかたんぼってお願いしたってです、どんな修行したってです、お願いから生まれてくる、おかげはやはり、言うならまぁ願うただけです。けれどもですね、本当にお礼から生まれる、お詫びから生まれ、その、私はおかげでなからなければ、人が見栄を見張るような、それこそ皆さんで言うならば、夢にも思わなかったような、おかげに進展してくるというのがです、お礼の内容というものの信心が本当に分かってからです。ためにはここに本気でですね、ね。
甘木の初代が、天地の大恩を聞かれた時に、ね、天の御恩は、おぼれながら知っておったけれども、地の御恩徳を説かれた時にです、それこそ足元から鳥が飛び立つ思いで、びっくりしてその驚き、そのびっくりそれこそ驚かれたということでございますがです、ね、その実感がです、いよいよ大地の御徳を身に受けておいでられて、現在の甘木があります。ね、甘木の先生の知恵や才覚でです、とてもあんなものが、あんな教会が生まれると思われません。ね。
甘木の金神さんと言うて笑っておられた人達でも、ね、なるほどさすがにと言うて目を見張った当時は、にございません、ね、椛目でもまだ言うならば、目を見張るとこまで行ってないでしょう。ね、その目を見張るような、その目がちょこっと出ておるくらいなことですから、けれども段々これがおかげ頂いてまいりましたらです、本当に人が目を見張るようなおかげにも段々内容が出けてさえくりゃぁ、頂けることであろうとこう思いますけれどもです。
それを言うなら、椛目の御広前の上だけではなくて、名々自分の家庭の上に頂く、おかげを頂くために、いわゆる御ヒレイに浴するだけではない、御ヒレイを頂くためにです、皆さん本気で、天地の御恩徳に対する神恩報謝のですね、思いというものをもっともっと、深く広く分からして頂くおかげを作らなければならんと、思いますですね。どうぞ願うちゃならんということじゃないです、ね、これはもう実感ですから、痛けりゃ痛いございます、痒けりゃ痒いございます。
「ああ先生が言いなさったけんもうお願いはでけん」そうじゃないです、それにしちゃお願いはいけませんですやはり、もう皆さんがどうでもいいなら、願わん方がいいでしょうばってんですね。そして御礼の方へお詫びの方へ、近づいて行きゃいいでしょうけれども、けれどもそういう信心にです、私共が進んで行かなければいけないと言う事です。確かに御礼だけででもおかげの頂けれる神様であり、お詫びだけでも頂けれる神様であり、これは私が二、三ヶ月前でしたかね、頂きました御理解の中にもです、ね。
「お礼とお詫びは願いに通ずる」と言う事を頂きました、お願いと同じ事なんです。ね、いやむしろです、その行についてにおいてはです、もっと言わば力のあるものなのです、神様の無尽蔵、神様の無限の、おかげや働きというものを頂くためにはです、そこんところの頂いておるおかげに対するところの、御礼しかもこんなにおかげを頂いておる私が、この様なお粗末な私であるというところにお詫び、ね、ここに尽きてのですね、おかげは、いわゆる目を見張るような、人がおかげの頂けれる。
一つの信心の受け物って言うかね、信心の基礎というのはそう言う所から、生まれたもんじゃなからなければいけない。でなからなければならないと、信心が分かれば分かるほど、御礼を御礼はさして貰わなければおられん。信心が分かれば分かるほど、自分が分かって行く事なんですから、お詫びしなければおられんのである。このままじゃしよったらおかげ頂かれんと言う様なですね、事ではなくてそのお礼が足りん、お詫びが足りんと言う所を、本当に実感して深めて行かなければいけないと思うですね。
どうぞ。